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      <title>アメリカ雑貨情報</title>
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      <description>この「アメリカ雑貨情報」サイトでは、アメリカ雑貨に関する情報はもちろん、アメリカに関する様々な情報をお届けします。</description>
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         <title>エルビスプレスリーの生い立ち</title>
         <description><![CDATA[<strong>エルビス・プレスリー</strong> （Elvis Presley）
1935年1月8日〜1977年8月16日
アメリカのロックンロール歌手で、「キング・オブ・ロックンロール」として有名。


本名はエルヴィス・アーロン・プレスリー（Elvis Aron Presly）

1935年1月8日午前4時35分頃、ミシシッピー州イースト・テュペロにある2部屋の小さな家で

双子の一人として生まれました。

父はヴァーノン・エルヴィス・プレスリー、母はグラディス・ラブ・プレスリー。


30分ほど先に生まれた双子の兄弟のジェシー・ギャロン・プレスリーは死産でした。

父のヴァーノンはなかなか仕事に恵まれず小作農夫、運転手、ペンキ工などの職を転々とし

て一家は貧しい暮らしを余儀なくされていました。

それでも一家は週に二回は近くの教会でゴスペルなどの聖歌を合唱するなど、敬虔なクリス

チャンでした。


しかしエルビスプレスリーが13の歳時に父親ヴァーノンが職を失ったため、一家はテネシー

州メンフィスに移住し、ロウダーデール・コート公営住宅に転居しました。

ちょうどその地はエルヴィス・プレスリーが多大な影響を受けたり与えたりしたビール・ス

トリート、エリス・オーディトリウム、サン・スタジオといったメンフィス・ミュージック

や文化的な影響を受けた施設がすぐ近くにありました。


そしてエルビスプレスリー自身は高校卒業後に精密金型会社に就職したものの仕事がなくな

り解雇され、次にクラウン・エレクトリック社のトラック運転手になりました。


音楽面では9歳の時に初めてラジオに出演し、オールド・シェップを歌ったのをはじめに、

10歳の時にタレントコンテストに出場し、2等賞を取りました。

11歳の誕生日には母親からギターを買ってもらい、エルビスプレスリーは嬉しくて2年間学

校に持っていったそうです。

高校の時はその学校の恒例イベント「ミンストレル・ショー（白人の芸人が顔を黒塗りにし

、ステージで黒人の物真似をする大衆芸能）」に出演して大ウケだったそうです。
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         <category>060エルビス・プレスリー</category>
         <pubDate>Sun, 31 Dec 2006 03:21:32 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>エルビスプレスリー誕生秘話</title>
         <description><![CDATA[サン・レコードとは創業者サム・フィリップスが1950年テネシー州メンフィスに才能に恵まれながらもレコーディングができない貧しいミュージシャンたちのために、白人黒人問わず誰でも一枚4ドルを払えばレコーディングできるサン・スタジオを設立したレコード会社です。


1953年、<strong>エルビスプレスリー</strong>は母親の誕生日に自分の歌った曲のレコードをプレゼントしようとメンフィス・レコーディング・サービス（現在のサン･スタジオ）を尋ね、4ドル余りを支払ってアセテート盤に自らのギター伴奏で「マイ･ハピネス」と「心のうずく時」を録音しました。

この日、経営者のサム･フィリップスは不在だったのですが、秘書のマリオン･キースカーが応対し、エルヴィスプレスリーの住所と電話番号を念のため控えていて、そしてその1年後の1954年6月にサム・フィリップスはエルヴィス・プレスリーに連絡を取り、同年7月5日にエルビス・プレスリーにとってプロになって初のレコーディングが開始されたのでした。

その日のレコーディングのリハーサル休憩中にエルヴィスプレスリーが緊張を和らげる目的で「ザッツ･オール･ライト」（アーサー・クリュードップという黒人の歌手のナンバー）の古いブルースを遊びでアレンジしたところ、それを聴いていたサム･フィリップスがエルビスの才能を感じ録音ボタンを押したのでした。


そしてそれをラジオ局の友人に渡して放送されるとアンコールを求める電話が殺到し、たちまちメンフィスでローカル・ヒットとなりました。なんとそのDJは番組の中で同じ曲を7回もかけたそうです。


こうしてエルビスプレスリーはここからデビューし、羽ばたいていったのでした。
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         <category>060エルビス・プレスリー</category>
         <pubDate>Sat, 30 Dec 2006 10:34:30 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>エルビスプレスリーとメンフィス</title>
         <description><![CDATA[<strong>エルビスプレスリー</strong>を語る上で欠かせないのがメンフィスという土壌です。


メンフィスはテネシーの西境にありミシシッピー川を見下ろすように絶壁に位置しています。

この都市は強力な川のデルタの頂点の上に位置しています。それは米国の2つの根本的に異なった領域の間でゲートウェイを形成しています。

南には貧困なデルタの農場、ルイジアナの湿地帯、およびジャズの街ニューオリンズなどの港湾都市があり、北と西には、米国中西部の豊かな平野の農場とシカゴとデトロイトのような北工業都市があります。 


古くから綿花の集散地としても栄え、現在も多くの綿花が取引されており、その量はアメリカの綿花全体の1/3になるそうです。


しかしその一方で、奴隷市も開かれたなど暗い歴史をもつ土地でもあります。


現在メンフィスの人口は約65万人で、その半数を黒人が占めています。

またセントルイスと並ぶ黒人音楽とカントリーが融合してできた音楽、ブルースの発祥地としても有名です。


こういう異質なものが混在するところから文化は生まれやすいものです。

日本でも古くからは大陸からお米が伝わってきたり、戦争に負けてアメリカから音楽、映画、チョコレートやハンバーガーなど大量の文化が入ってきたように、メンフィスではそれがブルースでありロックンロールでありエルヴィスプレスリー（Elvis Presley）だったのでしょう。


メンフィスのグレースランドにあるエルビス・プレスリーの家は、今でも年間60万人が訪れ、「アメリカ国内で2番目に訪問者の多い家」なのだそうです。

またエルビス・プレスリーは大のレストラン好きであり、メンフィスにあるレストランはどこも口をそろえて「エルヴィスプレスリーが気に入ってくれたレストランだ」と主張したがるのだそうです。]]></description>
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         <category>060エルビス・プレスリー</category>
         <pubDate>Fri, 29 Dec 2006 17:51:30 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>エルビスプレスリー、RCAビクターレコードへの移籍</title>
         <description>サン・レコードから待望の最初のシングル･レコード｢ザッツ･オール･ライト/ブルームーン・オブ・ケンタッキー」が発売され、エルビスプレスリーは歌手として彼の名前を看板や広告に出した初めてのコンサート「メンフィスのオーバトン･パーク・シェル」に出演しました。

エルビス・プレスリーとギタリストのスコティー･ムーア、ベーシストのビル･ブラックの3人はこの頃からボロ車に楽器を載せて、精力的に南部を公演して回りました。 

その合間、南部の都市ナッシュビルのライマン･オーディトリアムで開催されていたカントリー歌手の登竜門「グランド･オール･オプリー」に出演して「ザッツ・オール・ライト」「ブルー・ムーン・オヴ・ケンタッキー」を歌いましたが、出演後タレント･コーディネータ

ーのjジム・デニーからはなんと「歌手を止めてトラック運転手に戻った方がよい」と言われたそうです。

そんなこともあってこれが最初で最後の出演となりました。


しかし一方でルイジアナ州シュリーブポート、KWKH局の「ルイジアナ･ヘイライド」に初出演し、観客から熱狂的な歓迎を受け、番組への1年間の出演契約を結ぶことになったのです。

この時エルビスプレスリーはまだ未成年だったため、両親がシュリーブポートまで出かけて署名しました。


この頃からエルビスの身辺があわただしくなり始め、まず本格的に歌手業に専念するため、勤めていたクラウン電気会社を退職し、収入の急増に伴い、エルビスプレスリー一家はアパートから初めて１軒家に引っ越しました。


また、それまでエルビスプレスリーのマネージャーを兼ねていたギタリストのスコティーに代わって、ボブ･ニールが専業のマネージャーとなりました。

プロのマネージャーが着いたことにも助けられ、この年エルビスプレスリーは一年365日のうち半分以上の200回近くのライブ・ショーを行いました。

それは殆ど1年中ツアーのため南部諸州を車で旅していたことになります。


そんな中、スコティ、ビル、ボブと共にエルヴィスプレスリーは生まれて初めてニューヨークへ行き、アーサー･ゴドフリーの「タレント･スカウト」TVショーに出演のためのオーディションを受けたのですが落選してしまいました。

しかし南部のフロリダ州ジャクソンビルでのコンサートの観客が興奮の余り暴動状態となり100名ほどのファンが楽屋に乱入し、エルビス・プレスリーの衣服をむしりとるなど手のつけられない状態となりました。それから、エルビスプレスリーのコンサートには警官隊の警備がつくことが多くなりました。


いろいろあったのですが｢ベイビー・レッツ・プレイ・ハウス」がカントリー＆ウエスタン部門で15位になり、とうとうビルボード誌の全国チャートにエルビスプレスリーが初めて登場しました。


こうして全国区になると大手レコード会社がエルビスプレスリーに目をつけ、また敏腕で知られるパーカー大佐がエルビスプレスリーのマネージャーとなり、RCAビクターレコードがエルヴィスプレスリーの契約をサン･レコードから35,000ドルで買収する契約が成立しました。

サインはサン･スタジオにサム、パーカー大佐、ボブ・ニール、エルビスプレスリー、エルビスプレスリーの両親、RCA代理人のコールマン･ティリーが出席して行われ、この時エルビスプレスリーはRCAから5,000ドルのボーナスを受け取りました。

RCA移籍後最初のシングル「ハートブレイク･ホテル/ただひとりの男」が発売されましたが発売後しばらくの間、市場の反響は混迷に近い状態で推移しRCAの内部では失敗作と懸念する声も上がったのですが、一ヶ月がたち「ハートブレイク･ホテル」が68位でチャート入りし、7週後にはなんとナンバーワンまで上り詰めたのです。

その後8週間にわたって1位のランクを保持し、最初のミリオン･セラーとなりました。


これをきっかけにエルビスプレスリーは栄光の階段を駆け上がっていくことになります。
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         <category>060エルビス・プレスリー</category>
         <pubDate>Thu, 28 Dec 2006 11:57:36 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>エルビスプレスリーとショービジネス</title>
         <description><![CDATA[ナンバーワンチャートに輝いた<strong>エルビスプレスリー</strong>は当時普及し始めていたテレビに出演するようになりました。

エルヴィスプレスリーの歌は、それまでの白人アーティストたちに比べるとあまりに黒人っぽかったので、ラジオで聴いた多くの聴衆は、初めエルビスプレスリーのとこを黒人だと思っていたほどです。


しかし、エルビスプレスリーがテレビ画面に登場し、そこでロックンロールを歌ったことで、世の人々は間違いなくエルビスプレスリーの存在を知り、白人青年による黒人たちの歌の模倣という衝撃的な出来事を目の当たりにすることになりました。

まして、テレビ画面では、エルヴィスプレスリーは歌だけでなく、腰を激しく動かす黒人ならではのダンスも映ってしまいます。


これがまた、多くの白人の大人たちの反感を買うことになったのでした。

テレビ局はエルビスプレスリーがテレビで腰を振るシーンが公開された時の世論の反発を恐れたので、当初エルビスプレスリーのテレビ出演に消極的でした。

しかし、テレビがやっとお茶の間に広がり始めたこの時期は、まだまだ放映するプログラムが少なく、まして若者たちに受け入れられる人気番組は、数が限られていました。

そんな中、音楽番組は、予算も少なく比較的簡単に制作できる人気プログラムだったのです。


そこで、フランク・シナトラやアンディ・ウィリアムス、パット・ブーン、トニー・ベネットなどのエンター・テナーを中心とする音楽番組が次々に登場しました。

これらは白人の大人に対する娯楽であったため、本当に若者たちが見たがっているのは、エルビスプレスリーでした。

そしてその時代の波に乗り、テレビ局がこぞってエルビス・プレスリーを出演させるようになって行きます。


先ず最初に出演したのは「ドーシー・ブラザース・ショー」でした。

またABCテレビの「ミルトン･バール･ショー」に出演したときは「シェイク･ラトル･アンド･ロール」「ハートブレイク･ホテル」「ブルー･スエード･シューズ」を歌い、この時の視聴者の総数は4千万人にのぼったのですが、司会者のミルトン･バールは放送後なんと数万通ともいわれる抗議のレターを受け取ることになったのでした。


フロリダ州ジャクソンビルでのコンサートでは、エルビスプレスリーの動作が10代の観客に悪い影響を及ぼすとし、それに従わなかった場合のためにエルビスプレスリーの逮捕状も用意したのでした。

エルヴィス・プレスリーは後で、仕方なく指だけを動かしたと語ったそうです。

ラス･ヴェガスのニュー・フロンティア・ホテルでの最初の公演では、当初は4週間の予定が、観客の反応が芳しくないため2週間で打ち切られましたが、他の芸能人のステージを見て周るなどエルビスプレスリーはラスベガスに対する憧憬を持ち続け、これが後のラス・ヴェガスでの成功につながったのでした。


そんな中、エルビスプレスリー家はメンフィスの高級住宅街にあるオーデュボン・ドライブの邸宅を購入し引っ越しました。

そしてNBCテレビ「スティーブ･アレン･ショー」出演した時は、黒のタキシードを着せられたエルビスプレスリーはその時の演出でバセット･ハウンド犬に向かって「ハウンド･ドッグ」を歌わされました。

視聴率は22.2%でライバルの「エド･サリバン･ショー」の14.8％を凌駕したのですが、エルビスプレスリーにとって、犬を相手に歌わされたのはひどく屈辱的な出来事だったようです。


もう出演していないのは自分の番組にはエルビスプレスリーを出演させないと言っていた「エド･サリバン･ショー」ぐらいでしたが、この日の高視聴率と、ティーン･エージャーからの圧力に押されて出演契約を結んだのでした。


そしてついにCBSテレビの「エド･サリバン・ショー」に第1回目の出演しました。

この時エド･サリバンは交通事故で入院中だったため、英国の俳優チャールズ･ロートンが司会の代役を務めました。

エルビスプレスリーは「冷たくしないで」「ラブ･ミー･テンダー」「レディ･テディ（Ready, Teddy）」「ハウンド･ドッグ」を歌いました。

視聴率はなんと驚異的な82.6％、視聴者数5千4百万人でした。


「エド･サリバン･ショー」に3回目の出演の時、前回、前々回の放送後、エルビスプレスリーの動作についての非難があまりに多かったため、エドはエルビスプレスリーの腰から上だけを撮影するように指示したのです。


エルヴィスプレスリーが歌ったのは「ハウンド･ドッグ」「ラブ･ミー･テンダー」「ハートブレイク･ホテル」「冷たくしないで」「ブルームーンがまた輝けば（When My Blue Moon Tunrs To Gold Again）」「谷間の静けさ（Peace In The Valley）」の7曲を歌いました。

腰から上しか撮影しなかったことでエルビスプレスリーが気を悪くしているのではないかと慮った司会のエドは、番組の最後のシーンでエルビスプレスリーを「非常に礼儀正しい立派な青年」と持ち上げ、また「これまでの中で一緒に仕事をするのが最も楽しかった出演者」とも付け加えたのです。


当時エドの一般視聴者に及ぼす影響力はそれほど絶大だったので、この時のエドの言葉がエルビスプレスリーに対する誤解に基づいた非難の沈静化にかなり貢献したことは確かでした。


そしてこの瞬間は同時に、ロックン・ロールが白人社会にひとつの文化として定着した瞬間でもあったのです。

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         <category>060エルビス・プレスリー</category>
         <pubDate>Wed, 27 Dec 2006 12:03:56 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>エルビスプレスリーと映画</title>
         <description>歌で若者を虜にしたエルビスプレスリーですが、実は歌手よりも映画俳優になりたかったのです。

エルビスプレスリー自身はジェイムス・ディーンやマーロン・ブランドに憧れていましたが、有名になるためにと歌を歌うことを選びました。
　
　
そして有名になっていくにつれて映画会社数社からも出演の依頼が彼の元に届いたのです。

エルヴィスプレスリーは憧れだった映画に出演できると大変喜んで、映画館に通いつめ、演技を独学で勉強したのでした。

初出演映画にはマネージャーであるパーカー大佐が、エルビスプレスリーを映画の主演にさせたかったので20世紀FOX配給「Rino Brothers」を選びました。

この映画は南北戦争直後の南部を舞台に、兄の婚約者と結婚した弟（エルビスプレスリー）の悩みと、兄を助けるために凶弾に倒れる悲劇を描いたもので、エルビスプレスリーはシリアスな演技派の俳優になりたかったので、映画内では歌を歌わないつもりでしたが、パーカー大佐の要請で４曲も歌うことになりタイトルも「Love Me Tender」に変更されてしまったのです。
　
　
エルビスプレスリーは当時のガールフレンドに映画の不満を漏らしていたそうです。

結局、1956年から1969年まで計31本の映画が公開されましたが、エルビスプレスリーが望んだ歌なしの映画は1969年公開の「Charro（殺し屋の烙印）」しかありませんでした。
　
　
エルビスプレスリーが力を入れて撮影したシーンがカットされたり、既にエルヴィスプレスリーの主演映画の世間の注目度も低く脚本の出来もイマイチであったので、映画自体は振るわなかったのです。

数多く撮影されたにも関わらず、台本に恵まれずミュージカル映画の枠を超える事はなく、エルビスプレスリーの仕事への不満が溜まる要因を作り、歌手としてコンサート活動を再開するきっかけになりました。
　
　
エルビスプレスリーの主な出演作品には、次のような作品があります。

「監獄ロック(Jailhouse Rock)」（1957年） 
「G・I・ブルース(GI Blues)」（1960年） 
「燃える平原児(Flaming Star)」（1960年） 
「ブルー・ハワイ(Blue Hawaii)」（1961年） 
「ラスベガス万才(Viva Las Vegas)」（1964年） 

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         <category>060エルビス・プレスリー</category>
         <pubDate>Tue, 26 Dec 2006 16:52:36 +0900</pubDate>
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         <title>エルビスプレスリー、舞台衣装を脱ぎ軍服を着る</title>
         <description><![CDATA[映画にコンサートに忙しい日々を送っていた<strong>エルビスプレスリー</strong>でしたが、1958年1月20日にアメリカ陸軍から徴兵通知を受けました。

当時のアメリカ合衆国は徴兵制を施行しており、陸軍の徴兵期間は2年間でした。

エルビスプレスリーは特例措置を受けることなく、通常の兵士として西ドイツで勤務し、1960年3月5日に無事、満期除隊したのでした。


当初、家族をはじめとする多くのものが、平時におけるこの徴兵を疑問に感じ、中には「エルヴィスプレスリーの徴兵は政治的なもの」と考えた者もいましたが、兵役義務を無事完了させたことにより、その愛国的態度がアメリカ国民の胸を打ち、賞賛されました。


徴兵命令が来た際、エルビスプレスリーは映画「闇に響く声」を製作中で、徴兵を少し延期したことでも話題になりました。

徴兵局はパラマウント映画会社からの延期の申し入れに対し、エルビスプレスリーに自ら当局に出向くようにと伝え、翌日エルビスプレスリーは徴兵局へ出向き、延期の申し入れを行ったのでした。

エルビス・プレスリーは配属先の基地のキリーンの近くに両親と祖母を呼び寄せて一緒に住み始めましたが、徴兵前に撮った映画｢闇に響く声」が全米で一般公開されたころ 、母グラディスが急性肝炎に罹り亡くなりました。
    
エルビスプレスリーは悲しみを乗り越えて軍務をこなしました。     

また、自身も病気にかかり軍の病院において扁桃腺炎だと診断され、その際、医師は彼の声が変調するのを恐れて、扁桃腺の切除手術は行いませんでしたが、彼は順調に回復し健康を取り戻しました。


大変なことも多かったのですが駐留先の西ドイツでは2週間の休暇を取って同僚達とミュンヘンからパリを旅行しムーラン･ルージュやリドに行ったりして楽しんだようです。


兵役についた中で一番大きかったのがのちに妻となるポール･ボーリュー空軍大尉の娘、プリシラ･アン･ポーリュー（14歳）との出会いでしょう。

ドイツのフリードバーグではエルヴィスプレスリー一家のクリスマス･パーティにプリシラも招き、エルビスプレスリーはプリシラに大きなダイヤをあしらった金時計をプレゼントしたのでした。


そして二年間の兵役を終えエルビスプレスリーはメンフィスに帰り音楽活動を再開するのでした。
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         <pubDate>Mon, 25 Dec 2006 10:34:10 +0900</pubDate>
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         <title>エルビスプレスリー結婚秘話</title>
         <description>この頃映画の撮影などに大忙しのエルビスプレスリーでしたが、ついに1966年12月25日、プリシラ・ポーリューに正式に結婚を申し込み、クリスマスギフトとしてダイアモンドの婚約指輪をプレゼントしました。


そして1967年4月、映画「ブルー・マイアミ」の撮影終了後にエルヴィスプレスリー、プリシラ、ジョー・エスポジート夫妻、ジョージ・クライン夫妻が飛行機でパーム・スプリングズヘ飛び、エルビス・プレスリーの別荘に入りました。

父のヴァーノンは再婚相手のディーとメンフィスから列車でサン・バーナーディノまで行き、そこからジェリ一・シリング夫妻達と車でパーム・スプリングズに向かいました。（ 父のヴァーノンとディーの結婚式にはエルビスプレスリーは出席しませんでした）

翌日、マネージャーのパーカー大佐（少し前にエルビスプレスリーとのマネージャー契約を変更し、パーカー大佐の取り分であるマネジメント料を従来の25%から50%に引き上げ）が明日記者会見があるとだけ声明、エルヴィス・プレスリーの結婚式はぎりぎり当日までマスコミはもちろんのこと、親しい友人たちに対しても伏せられたのでした。


1967年5月1日、エルビスプレスリー達は、リアー・ジェットでラスベガスに飛び、午前3時、マッキャラン空港に到着しました。

その足で午前3時30分、エルビスプレスリーとプリシラは、ラス・ヴェガスを管轄するクラーク郡の郡庁で15ドルを払い結婚許可証を入手したのです。

そして午前9時41分、エルヴィスプレスリーとプリシラはアラディン・ホテルの2階（オーナーでパーカー大佐の友人であるミルトン・プレル）のスイートで、ネヴァダ州高等裁判所判事デヴィッド・ゼーノフの采配により約8分間の結婚式を挙げました。

エルビスプレスリーとプリシラの近親者およびパーカー大佐夫妻以外で、結婚式に参列できたエルビスプレスリーの友人は２人だけでした。


挙式後、ホテルの宴会場で記者会見があり、続いてエルビスプレスリーとパーカー大佐の親しい友人を招いての披露宴が催されました。

しかし、この披露宴に招かれなかった友人も多く、タブロイド新聞（アメリカの大衆紙）を見て初めて結婚式のことを知った人もいたり、また、式の参列者に選ばれず憤激のあまり披露宴にも出席しなかった人もいたそうです。


少しドタバタしましたが、エルビスプレスリーは愛するプリシラと無事結婚することができました。
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         <pubDate>Sun, 24 Dec 2006 02:49:48 +0900</pubDate>
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         <title>エルビスプレスリーとラスベガス公演</title>
         <description>プリシラと結婚したエルビスプレスリーは、娘、リサ・マリー・プレスリー(Lisa Marie Presley）も生まれ、（ミドルネームのマリーはパーカー大佐の夫人の名前から取った）ますます仕事を精力的にこなしていきました。

そんな時パーカー大佐がラス・ベガスのインターナショナル・ホテルにエルビスプレスリーを出演させる契約を結びました。

映画「チェンジ・オヴ・ハビット」の撮影開始され、映画「殺し屋の烙印」が全米で一般公開された頃、エルビスプレスリーは目前に迫ったインターナショナル・ホテル公演のリハーサルを始めるためメンフィスを出発し、ロサンゼルス入りしました。

今度の公演を成功させるためにエルヴィスプレスリーは、一流のスタジオ・ミュージシャンを集め、バックバンドを編成したのでした。


そしてついにインターナショナルホテル公演が始まり、この日のオープニングショーは、名士と報道陣の招待客のみで、午後10時から始まりました。

招待客の中には、ウェイン・ニュートン、ぺトラ・クラーク、アン・マーグレット、シャーリー・バッシー、パット・ブーン、ポール・アンカ、ディック・クラーク、ジョージ・ハミルトン、アンジー・デ&apos;イッキンソン、バート・バカラック等のそうそうたる招待客が名を連ねていました。


このショーを皮切りに毎晩2回のショー(20時15分のディナーショーと真夜中のカクテルショー)が8月28日まで続きました。


ショーの一番安い席で15ドル、29日間で合計57回のショーをこなし、延べ101,500人の観客客を動員しました。これはラスベガス新記録で、人場料収入の1,522,635ドルもラスベガス新記録でした。


噂によるとエルビスプレスリーのギャラは1週間で10万ドルだったといいます。


28日に最後のショーを打ち上げた後、エルヴィスプレスリーは多くの友人を招いてパーティを開きました。


前年のTVスペシャル、この年初頭のアメリカン・サウンド・スタジオでのレコーディング、そしてラスベガスでの公演の大成功と立て続けに華々しい成果を挙げたエルビスプレスリーは、プリシラや家族を伴ってハワイへの休暇旅行に出かけたのでした。

ハワイに滞在中、一行の間でハワイ滞在を切り上げて残りの期間をヨーロッパで過ごすことに話がまとまりロサンゼルスに戻ったのですが、パーカー大佐の反対で行き先をバハマ諸島に変更することとなりました。

バハマ諸島ではあいにくハリケーンに襲われて天候が悪く、エルビスプレスリー達はバハマ諸島での滞在も切り上げて予定より早くロサンジェルスに戻るはめになったのでした。


しかし休暇から帰るとサスピシャス・マインド(Suspicious Minds）がビルボードHot100チャートで第1位に輝きました。

これはエルビスプレスリー通算18曲目でそして最後のNo.1ヒットとなったのです。
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         <pubDate>Sat, 23 Dec 2006 03:01:02 +0900</pubDate>
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         <title>エルビスプレスリーの死</title>
         <description>こんなに光り輝いて見えたエルビスプレスリーもそれと裏腹に体はぼろぼろでした。

エルビスプレスリーが亡くなる前の7年間に行ったライブは1000回以上で、1ヶ月平均35回という殺人的なスケジュールをパーカー大佐の指示通りこなしていました。

エルヴィスプレスリーはその苦しさから逃れるため、睡眠薬などの薬物を使用していたと言われています。

その薬物の影響からか映画「エルビス・オン・ステージ」やハワイでのコンサート「アロハ・フロム・ハワイ」では歌詞を覚えられないと不安がったり、リハーサルでは歌詞や歌う曲の順番も間違えてしまいました。

ニューヨーク・マディソン・スクエア・ガーデンでの公演では、3日間で合計8万人を動員し、観客の中にはジョン・レノン、ジョージ・ハリスン、ボブ・ディラン、デイヴィッド・ボウイなど超大物がいたことは特筆に価します。


しかし、エルビスプレスリーの私生活はというと、プリシラとの離婚を皮切りに車を何台も買ったりする浪費癖や、女性関係なども問題があったり、自身もストレスからかぶくぶく太ってしまいました。


そんな荒んだ生活を省みずついに1977年8月16日にテネシー州メンフィスの自宅の寝室のバスルームで倒れているところをガールフレンドに発見され、病院に運ばれましたが約1時間後に死亡が確認されました。

検死の結果、死因は処方箋の極端な誤用による不整脈と発表されました。

エルビスプレスリー、享年42歳、早すぎる死でした。


次の日、アメリカ合衆国大統領ジミー・カーターが「エルビスプレスリーの死によってわが国は自らの一部を失った。エルビスプレスリーはユニークでかけがえのない存在だった。20年以上前エルヴィスプレスリーが登場し米国民に与えたインパクトは前例のないものであったし、今後もそれに匹敵する人物は現れないだろう。エルビスプレスリーの音楽と人柄は、白人のカントリー音楽と黒人のりズム&amp;プルースを調和させることによって、アメリカの大衆文化を永遠に変容させた。エルビスプレスリーの後を継ぐ者は多く、エルビスプレスリーは世界中の人々にとってアメリカの活力、反逆精神、明るい気質の象徴であった。」という声明を発表しました。

そして葬儀は8月18日に行われ、遺体は沿道に集まった8万人もの群集に見守られる中、メンフィスのフォレストヒル墓地の母親グラディスの隣に葬られました。

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         <category>060エルビス・プレスリー</category>
         <pubDate>Fri, 22 Dec 2006 15:56:01 +0900</pubDate>
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         <title>フォルクスワーゲンについて</title>
         <description>フォルクスワーゲンはドイツのニーダーザクセン州ヴォルフスブルクに本社を置くヨーロッパを代表する自動車会社です。

略称をVW AG、さらにはVWと書かれることも大変多いです。


フォルクスワーゲンは乗用車部門とトラック、バス、バン、キャンピングカーなどの商用車部門に分かれ、乗用車部門はフォルクスワーゲンブランドとアウディブランドの二つのブランドに分かれます。


フォルクスワーゲンブランドは、フォルクスワーゲン(Volkswagen)とチェコ共和国を本拠地とするシュコダ(Skoda)、イギリスのベントレー(Bentley)、フランスのブガッティ(Bugatti)を傘下に持ちます。

一方アウディブランドは、アウディ(Audi)、スペインのセアト(SEAT)、イタリアのランボルギーニ(Lamborghini)があります。


現在に至るまで世界の自動車界ではグループによる寡占が進んでおり、フォルクスワーゲンもそういった時代の波の中で勝ち残り、買収などにより多国籍企業になっていきました。

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         <category>610フォルクスワーゲン</category>
         <pubDate>Thu, 21 Dec 2006 15:43:51 +0900</pubDate>
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         <title>フォルクスワーゲンの歴史</title>
         <description>元々フォルクスワーゲンはナチス政権の国策企業として第二次世界大戦前に設立されました。

ヒトラーが労働者の余暇を豊かなものにするためにと言う名目でベルリンモーターショーでフォルクスワーゲン（国民車）計画を提唱し、フェルディナント・ポルシェ博士に設計を託したところからその歴史が始まりました。


しかし第二次世界大戦が始まると、ヒトラーはキューベルワーゲンなどの軍用車両を優先させて生産し、その労働力にはアウシュビッツ収容所などから強制労働者が充てられ、約束であった国民車が生産されることはありませんでした。


第二次世界大戦後、敗戦国となったドイツは連合軍の統制化におかれ、そして戦火で大きな損害を受けた工場を復興させるために、イギリスからアイヴァン・ハースト少佐が送り込まれてきました。

少佐は荒れ果てた工場を立て直し、フォルクスワーゲンの品質管理を徹底し次々と製造ラインを軌道に乗せていきました。

そしてディーラーネットワークを整備し、販売現場の声を工場側へ伝える仕組みも確立しました。さらに多くの整備士を養成し、アフターサービス網の整備にも力をいれました。


これが今のフォルクスワーゲンの基本コンセプトになり生命線にもなっているといえます。

今では車を作って売る側として当たり前のことですが、当時としては画期的な考え方でした。

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         <category>610フォルクスワーゲン</category>
         <pubDate>Wed, 20 Dec 2006 17:06:26 +0900</pubDate>
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         <title>フォルクス・ワーゲンの歴史２</title>
         <description>ハースト少佐の尽力でなんとか建て直しをはかったフォルクスワーゲンの工場ですが、さらに業績を伸ばすために招かれたのが元オペルの工場長であったハインリッヒ・ノルトホフでした。

フォルクスワーゲンの工場長に就任すると、彼はオペル時代にGM視察旅行で得たアメリカ式自動車生産・販売のノウハウを早速採り入れ、自分の工場で作っているフォルクスワーゲンを分解し徹底的に調べその性能を確信します。

そしてフォルクスワーゲンがいかに素晴らしいクルマであるか、またそこで働く事の素晴らしさを伝えることで、パートナーとの堅い信頼を築きました。

最新鋭の設備を導入するだけでなく、従業員一人一人に誇りを持たせるというフォルクスワーゲンの気風はノルトホフが生みだしたと言えるでしょう。


ノルトホフの工場長就任の翌年、フォルクスワーゲンを管理下に置いていた連合国が話し合いによりフォルクスワーゲンをどうしようか議論していたのですが、「フォルクスワーゲンに価値はない」と出席者の一人であるアメリカのフォードモータースの社長であったヘンリー・フォードU世が言い放ち、結局それが連合国の意見となり無償でドイツ連邦に返されることになったのでした。


皮肉なことに今日では、フォード・モータースが販売不振で苦しんでいるのを横目にVWは好調です。


それもフェルディナンド・ポルシェ博士の天才的な設計と、アイヴァン・ハースト少佐による終戦後の混乱からの工場再生と、ハインリッヒ・ノルトホフが従業員のモチベーションや自動車のクオリティを高めたことによって、企業の価値が飛躍的に上がったからです。

この三人の男やそれに関わったすべての人たちの弛まぬ努力と不屈の精神によって、今日の繁栄を享受できていることを忘れてはならないのです。

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         <category>610フォルクスワーゲン</category>
         <pubDate>Tue, 19 Dec 2006 11:30:12 +0900</pubDate>
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         <title>フォルクスワーゲン・ビートル（Volkswagen Beetle）</title>
         <description>1938年〜2003年に四輪自動車の世界最多記録である累計2100万台を生産。

設計はフェルディナンド・ポルシェ博士によるもので、フォルクスワーゲン社の第一号車であるためフォルクスワーゲン・タイプ１（Type 1）と呼ばれました。

カブトムシのような形からビートルと呼ばれますがこれは愛称で、フォルクスワーゲン社は公式にビートル（Beetle）と呼んだことは一度もなく、本国ドイツでは「ケーファー＝（ドイツ語でカブトムシの意味）」という愛称で人々に親しまれました。

そのかわいい容姿もさながら、空冷式水平対向4気筒エンジンと車体の最後部に置かれるRR（リアエンジン、リアドライブ）車であることが、なんといっても特徴的でしょう。

そのため前のボンネットの下がトランクになっていて、普通の車のトランクとエンジンの場所が逆です。


1949年には4シーターのコンバーティブルであるビートルカブリオレが登場しロングセラーとなり、後に世界で最も売れたカブリオレとなりました。


日本で初めてフォルクスワーゲンビートルが登場したのは1952年で、輸入販売元は日独自動車（現在のヤナセ）でした。


現在は1998年に登場した二代目であるニュービートルが世界中で販売されています。

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         <link>http://am.gnk24.com/610/volkswagen_beetle.html</link>
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         <category>610フォルクスワーゲン</category>
         <pubDate>Mon, 18 Dec 2006 11:33:06 +0900</pubDate>
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         <title>フォルクスワーゲン日本での歩み</title>
         <description>1952年にフォルクスワーゲン社長のハインリッヒ・ノルトホフが4台のビートルを日本に持ち込みました。

1953年ヤナセがフォルクスワーゲンビートル105台とタイプ2（通称トランスポーターと呼ばれた今でも日本で大変人気の高いバン）3台が輸入し、これを皮切りに本格的なフォルクスワーゲンの輸入が始まり、同時に輸入自動車協会（現：日本自動車輸入組合 JAIA）が設立されハード面でも輸入車の統計などが整備されこれが追い風となります。


1954年、ヤナセが日本でのフォルクスワーゲンの輸入販売権を獲得しました。

当初から右ハンドル仕様も導入し、日本の諸事情にあった販売で輸入車トップシェアを維持していくことになります。


カルマンギア、タイプ3、タイプ4、K70、初代パサートなどが輸入され、そして1975年ついに今でも人気の高いゴルフ(Golf)が輸入されました。

その後もジェッタ、日産自動車と提携して作られたサンタナなど、これらの車の名前はご存知の方も多いのではないでしょうか。


そして1990年代初め、フォルクスワーゲン株式会社が日本での販売、ネットワークを構築すべく、自身で販売権を取得し販売パートナーとしてトヨタ自動車とも手を組み愛知県豊橋市にインポートセンターを設立し本社もそこに移しました。

これに怒ったヤナセが1992年にフォルクスワーゲンおよびアウディの輸入、販売から撤退（2005年に再開）しました。


フォルクスワーゲンビートルは1996年ついに累計販売台数が10万台を突破、1999年にはニュービートルを販売するとどんどん勢いが加速し、2003年には累計販売台数が50万台に手が届き、2005年にはついに累計販売台数が100万台を突破し現在もますます好調を維持しています。
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         <category>610フォルクスワーゲン</category>
         <pubDate>Sun, 17 Dec 2006 11:36:35 +0900</pubDate>
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