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エルビスプレスリー、RCAビクターレコードへの移籍

サン・レコードから待望の最初のシングル・レコード「ザッツ・オール・ライト/ブルームーン・オブ・ケンタッキー」が発売され、エルビスプレスリーは歌手として彼の名前を看板や広告に出した初めてのコンサート「メンフィスのオーバトン・パーク・シェル」に出演しました。

エルビス・プレスリーとギタリストのスコティー・ムーア、ベーシストのビル・ブラックの3人はこの頃からボロ車に楽器を載せて、精力的に南部を公演して回りました。

その合間、南部の都市ナッシュビルのライマン・オーディトリアムで開催されていたカントリー歌手の登竜門「グランド・オール・オプリー」に出演して「ザッツ・オール・ライト」「ブルー・ムーン・オヴ・ケンタッキー」を歌いましたが、出演後タレント・コーディネータ

ーのjジム・デニーからはなんと「歌手を止めてトラック運転手に戻った方がよい」と言われたそうです。

そんなこともあってこれが最初で最後の出演となりました。


しかし一方でルイジアナ州シュリーブポート、KWKH局の「ルイジアナ・ヘイライド」に初出演し、観客から熱狂的な歓迎を受け、番組への1年間の出演契約を結ぶことになったのです。

この時エルビスプレスリーはまだ未成年だったため、両親がシュリーブポートまで出かけて署名しました。


この頃からエルビスの身辺があわただしくなり始め、まず本格的に歌手業に専念するため、勤めていたクラウン電気会社を退職し、収入の急増に伴い、エルビスプレスリー一家はアパートから初めて1軒家に引っ越しました。


また、それまでエルビスプレスリーのマネージャーを兼ねていたギタリストのスコティーに代わって、ボブ・ニールが専業のマネージャーとなりました。

プロのマネージャーが着いたことにも助けられ、この年エルビスプレスリーは一年365日のうち半分以上の200回近くのライブ・ショーを行いました。

それは殆ど1年中ツアーのため南部諸州を車で旅していたことになります。


そんな中、スコティ、ビル、ボブと共にエルヴィスプレスリーは生まれて初めてニューヨークへ行き、アーサー・ゴドフリーの「タレント・スカウト」TVショーに出演のためのオーディションを受けたのですが落選してしまいました。

しかし南部のフロリダ州ジャクソンビルでのコンサートの観客が興奮の余り暴動状態となり100名ほどのファンが楽屋に乱入し、エルビス・プレスリーの衣服をむしりとるなど手のつけられない状態となりました。それから、エルビスプレスリーのコンサートには警官隊の警備がつくことが多くなりました。


いろいろあったのですが「ベイビー・レッツ・プレイ・ハウス」がカントリー&ウエスタン部門で15位になり、とうとうビルボード誌の全国チャートにエルビスプレスリーが初めて登場しました。


こうして全国区になると大手レコード会社がエルビスプレスリーに目をつけ、また敏腕で知られるパーカー大佐がエルビスプレスリーのマネージャーとなり、RCAビクターレコードがエルヴィスプレスリーの契約をサン・レコードから35,000ドルで買収する契約が成立しました。

サインはサン・スタジオにサム、パーカー大佐、ボブ・ニール、エルビスプレスリー、エルビスプレスリーの両親、RCA代理人のコールマン・ティリーが出席して行われ、この時エルビスプレスリーはRCAから5,000ドルのボーナスを受け取りました。

RCA移籍後最初のシングル「ハートブレイク・ホテル/ただひとりの男」が発売されましたが発売後しばらくの間、市場の反響は混迷に近い状態で推移しRCAの内部では失敗作と懸念する声も上がったのですが、一ヶ月がたち「ハートブレイク・ホテル」が68位でチャート入りし、7週後にはなんとナンバーワンまで上り詰めたのです。

その後8週間にわたって1位のランクを保持し、最初のミリオン・セラーとなりました。


これをきっかけにエルビスプレスリーは栄光の階段を駆け上がっていくことになります。

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